敵討の作法1                                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

敵討の作法1

■敵討が無罪とされるのは江戸幕府からだが、室町幕府は親の敵を殺した場合、殺害者も死刑に処す制度であった。理由は敵討が連綿と続くからだろうと思われる。
 江戸時代における敵討は目上の者の敵を討つ場合だけ認められていた。目上とは主人、父母、伯叔父姑、兄姉などであり、子の敵を親が討つことや、兄の敵を弟が討つことは「敵討」と認められず、そうした目下の者を殺された親族は、通常の刑事手続を官に願い出て処刑されんことを祈るしか方法がなかった。
 
  目上の者の敵討でも、相手が乱心者(精神病者)では許されず回復を待った上でなければならなかった。また、敵討には一定の手続きを要した。主君の許可を受けて「免状」をもらわねばならず、領外へ敵を追う場合は、主君より幕府の三奉行所(寺社奉行所、町奉行所、勘定奉行所)へ敵討を許可した旨を届け出てもらい、町奉行所に備え付けの敵討帳と言上(ごんじょう)帳に記載してもらい(これを「帳付 ちょうづけ」と呼ぶ)
、その記載事項の謄本(これを「書替 かきかえ」と呼ぶ)を受け取らねばならなかった。これによって主君より敵討の暇(いとま)願いがやっと許可され、敵を追うことができるのであった。
 敵を首尾よく討った場合、討たれた相手の親族から「再敵討」の願いが出されることが予想されるが、これは許可されなかった。返り討ちにあってしまう場合も予想されるが、「又候(またぞろ)敵討」の願いは禁止された。連綿とは続かないのである。なお、百姓、町人の敵討は武士のような明確な取り決めはなかったと言われる。
※参考文献 石井良助著「第一江戸時代漫筆」

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