戦考3                                                                            江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

戦争観3 

■古くは桶狭間、近きは真珠湾と日本人は短期決戦、即戦即決の奇襲戦法を好んで用いているが、この理由を日本人の気性が短気だからとする論者がいる。自殺者が多いのは、日本人の血液型にA型が多いからだとする論法と同じで、おいおい冗談はよしてくれと言いたくなる。
  さて前回、謙信と信玄による川中島の戦いが、田植え後の7月に始まり稲刈り前の10月に終わっていることから、長期戦で勝つよりも兵力・食糧を失うことを恐れたからだと書いた。今回は、もし両者とも兵力・食糧が豊富であったなら、長期に戦い続けたかどうか、これについて考えてみたい。
  まずは持久戦には兵力・食糧などの補給が絶対に欠かせないが、これはきわめて難しいのである。AからB地点へ兵力・食糧を移動するにあたって、日本独特の地形が大きく影響してくる。中央に控える背梁の山地帯、これが難関の因となる。

■背梁山地帯が分水嶺となり、日本海・太平洋へ大小河川が流れ下っている。主要道路は背梁山地を避けざるを得ず、海岸沿いに開かれたが、山地から流れ下る河川によって断ち切られることになった。
  食糧を運搬するには橋と荷車があると都合がいい。橋と荷車の歴史を調べると、これが実に貧困なのである。平安朝末期の「扇面古写経」に牛が二輪の荷車をひく絵が描かれているらしいが、普及はしなかった。荷車の普及は江戸の寛文期(1661-1672)に登場する大八車まで待たねばならない。
  洪水でも流されにくいのは木橋より石橋。本格的な日本最古の石橋は豊臣秀吉によって日吉大社境内の大宮川に架けられたもの。九州地方のアーチ型石橋は江戸寛永期(1624-1643)以降のものとされる。木材は豊富だが石の産地は限られ加工費用が高い。石橋・荷車が普及するのは地方領主権力の元では無理で、統一された後ということになる。

<<前