江戸の超人=神沢杜口(かんざわ とこう)                                                                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 
 
神沢杜口 宝永7年-寛政7年(1710-1795)享年86歳。
 杜口
(とこう 意味は口をふさぐ)は号の一つだが、他に可々斎(かかさい 意味は腹に一物なく朗らかに生涯暮らす)や、其蜩庵(きちょうあん 「その・ひぐらし」=「その日暮らし」を掛けているが、貧乏暮らしではなく、雑念を持たず一日一日を楽しく暮らすと言う意味)
がある。わたしは其蜩庵が気に入っている。杜口の号は役人時代に作ったものであろう。
 
 本名は貞幹(さだよし)
。20歳の頃に養父の跡を継いで京都町奉行所与力となっている。格は江戸町奉行所与力と変わらず、俸禄は新参120俵から古参230俵
、大雑把に一石=一両=20万円で計算すると実質年収は960万円から1840万円。家族の他に軍役規定から最低4人の奉公人がいたであろうから現代とは異なるが、職掌上から副収入があったと思われる。
 与力職を40歳の頃に退任し、一人娘の婿に跡を譲る。杜口が現代に知られるのは
(有名ではないが、これから知れ渡ってほしい人)「翁草(おきなぐさ)という大部な著作を残しているからである。「翁草」は日本随筆大成第3期第19巻〜24巻(吉川弘文館)の6冊に収録されている。四六判(一般の単行本サイズ)で一冊あたり450ページほど、杜口は一度火事(天明8年=1788年の京都の大火)で「翁草」の大半を焼失するが、79歳にして再び書き起こし3年後に完成(寛政3年)するのである。並々ならぬエネルギー!凄い。
 
 さて、杜口のどこが現代人と通じているか、そして我々が学ぶべき点がどこにあるか、これであります。
 杜口の妻は、杜口が44歳の時に亡くなっている。以後独身を貫くのであるが、この妻との間に子供が5人生まれている。成人したのは末娘だけで、あとは亡くなっている。一人娘に婿をとらせ家督を相続させたわけだが、杜口は彼らと同居せずに市塵(しじん)の人となる。孫もいたが市中の雑踏の中で独り暮らすことを好んだ。娘家族と同居しても、いずれ煙たがられ疎んぜられる、それよりたまに会うほうが互いに嬉しいものだとする。
 また市中で暮らすのは、社会の様々な出来事や事件を見聞でき、色んな品物があって不自由することがないとし、かつ一箇所にこだわることなく市中の中で18回も引っ越している杜口なのである。主家に忠、親に孝の時代にもかかわらず、家・家族にこだわらず、終(つい)の栖(すみか)にもこだわらぬ、現代風に言えば、スタイリッシュなシルバーなのだ。
 
 杜口のエネルギーの源泉は、
 「余八旬に向たる迄は、老健にして五里七里の道に労せず。もはら此養生をなせり」
と、述べている。80歳になるまでは、20`〜28`ほどは楽に歩けたと言う。
 その養生法は気分を安らかにして腹に一物も蓄えず、つまり雑念を払い、ただひたすら毎日歩けば薬もいらず壮健に暮らせるとする。元々丈夫な体質なのかと言えば、さにあらず。杜口は生まれつき病弱の質であった。歩くことで丈夫な体質に変身したようだ。井の頭公園でよく歩いているお年寄りと出くわす。現代の杜口さんと呼びたい。

 好奇心の源泉は、
「劇場が好きゆへこれを以て観ずるに、生涯皆芝居也。舞台にしては恩愛にまよひ、忠孝により、義によりてさまざまの患難有といへども、舞台果れば舞台の君臣も君臣にあらず、親子も親子にあらず、偏(ひとえ)に生を換たるに等し。生涯の芝居果れば、爾也(しかなり)
。知れたる事ながら、芝居は虚にして実也。人間一生は実にして虚なるもの也」
 こう考えるようになってから杜口は、雑念や人間関係のしがらみに縛られることなく、すべての物事がただ心楽しく感ぜられるようになったと述べる。
 
 そして、こうも説く。
「畢竟(ひっきょう)
、人も溝虫も差別なく、天地の間の造化の一気を借りたるうじ虫なれば、何の論もなし」
 う〜む。うじ虫はよしてほしい。せいぜいハエトリグモくらいには、わたしも精進したいと思う。ともあれ、これだけの人物が江戸時代に存在したのであります。

※杜口画像の句=辞世とは すなはち迷ひ 唯死なん 可々斎