武家諸法度                                       江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP 

 

元和元年(1615)七夕の朝に、徳川幕府の基本法といわれる「武家諸法度」は発布されるが、いきなり発せられたものではなく、根回し的な布石が4年前の慶長16年(1611)にあった。
 同年4月12日、後陽成天皇から譲位を受けた後水尾天皇の即位式が紫宸殿で行なわれた。徳川家康は参内して賀を述べているのだが、そんな慌ただしい日に、二条城において西国大名22人から下記の三ヵ条に対する誓書を受け取っているのである。
 三ヵ条は以下。

      条々

1、如右大将家以後、代々公方之法式、可奉仰之、被考損益而、自江
  戸於被出御目録著、弥堅可守其旨事

 右大将家以後(うだいしょうけいご)代々公方(くぼう)の法式これを仰(あ
  お)
ぎ奉(たてまつ)るべし、損益を考えられて江戸より御条目
(じょうもく)
 を出されるにおいては、いよいよ堅くその趣きを守るべき事

2、或背御法度、或違上意之輩、各、国々可停止隠置事

 あるいは御法度(はっと)に背(そむ)き、あるいは上意に違(たが)うの輩
 (やから)、隠し置くべからざる事

3、各、抱置之諸侍已下、若為叛逆殺害人之由、於有其届者、互可停
  止相抱事

 おのおの抱え置きの諸侍以下、もし叛逆をなし人を殺害するの由(よ
  し)
、その届けあるにおいては、互いに相抱えらるべからざる事

 
右条々若於相背者、被逐御糾明、可被処厳重之法度者也
     月 日                     在京諸大名  連判

 右条々もし相背くには、ついに御糾明(きゅうめい)なされ、厳重の法度
  に処せらるべきものなり
  
 

 右大将家とは、権大納言右近衛大将の源頼朝を指す。頼朝以降の将軍家の政治を敬いなさい、江戸=徳川将軍家から発せられる御目録=法令は、頼朝以来の幕府の法令について古今損益を計ったものであり、つまり古例に照らし合わせて事の当否を議した上で発布するもの、という意味になる。「吾妻鏡」を座右の書とし、頼朝の政治を参考にした家康らしい表現といえよう。

 次に誓書に判を捺した22人。禁裏(京都御所)修造を幕府から命じられており、在京する大名が多かったのである。

 
細川忠興(豊前小倉35万9000石) 松平忠直(越前福井67万石) 池田輝政(播州姫路52万) 福島正則(安芸広島49万8000石) 島津家久(薩摩鹿児島72万9000石) 森忠政(美作津山18万6000石) 前田利光(加賀金沢119万5000石) 毛利秀就(長門萩36万9000石) 京極高知(丹後宮津12万3000石) 京極忠高(若狭小浜9万2000石) 池田利隆(備前岡山38万石) 加藤清正(肥後熊本52万石) 浅野幸長(紀州和歌山39万石) 黒田長政(筑前福岡52万3000石) 藤堂高虎(伊勢津24万3000石) 蜂須賀至鎮(はちすかよししげ 阿波徳島18万6000石) 山内忠義(土佐高知20万2000石) 田中忠政(筑後久留米32万5000石) 生駒正俊(讃岐高松17万1000石) 堀尾忠晴(出雲松江24万石) 鍋島勝茂(肥前佐賀35万7000石) 金森可重(よししげ 飛騨高山3万8000石)

 翌年の正月5日(江戸城)には東日本の大名50人から誓書を退出させている。以下がその名前である。

 佐久間安正 稲垣重綱 水谷勝高 成田泰親 六郷政乗 那須資景
 大田原晴清 大関正増 日根野吉明 土方勝重 滝川正利 
 土方雄氏 岡部宣勝 戸沢安盛 相馬利胤 村上義明 溝口秀信
 杉原長房 浅野長則 堀秀成 松下重綱 鳥居成次 松平成重
 高力忠長 諏訪頼満 内藤政長 保科正光 北条氏重 秋田実季
 土岐定義 細川興元 佐野信吉 真田信幸 仙石秀久 小笠原信之
 酒井忠利 牧野忠成 石川康長 榊原康勝 鳥居忠政 酒井重忠
 本多忠朝 酒井家次 松平康長 松平定綱 松平忠良 小笠原秀政
 松平信吉 奥平家昌 小笠原
忠脩  


 10日遅れの正月15日に提出した大名は以下。

 津軽信枚(のぶひら 陸奥弘前4万7000石) 南部利直(陸奥盛岡10万石) 里見忠義(安房館山11万2000石) 最上義光(よしあき 出羽山形57万石) 蒲生秀行(陸奥会津60万石) 佐竹義宣(出羽秋田20万5000石) 立花宗茂(陸奥棚倉3万石) 伊達政宗(陸奥仙台61万5000石) 丹羽長重(常陸古渡1万石) 上杉景勝(出羽米沢30万石) 松平忠直(越前福井67万石)

※丹羽長重と立花宗茂の石高が少ないのは、関ヶ原の戦いで本領を没収されたため。松平忠直が重複しているのは、忠直の父秀康が将軍秀忠の兄で、「制外の家」=将軍支配の外にある家という扱いだったため、外様に準じて京都・江戸で名を連ねたものらしい。

■元和元年(1615)七夕の日は大坂落城の2ヵ月後である。家康は二条城、秀忠は伏見城におり、諸大名も帰国していなかった。この日、諸大名を伏見城に召集し、本多正純が法度13ヵ条の発布を告げ、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が読み上げた。
 武家諸法度13ヵ条(各条註記は除く)は以下。

  1、文武弓馬(きゅうば)の道専(もっぱ)ら相嗜(たしな)むべき事

  2、群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)を制すべき事

  3、法度に背く輩(やから)諸国隠し置くべからざる事

  4、国々大名小名あわせて諸給人(きゅうにん)おのおの相抱える士卒
   叛逆をなし人を殺害し告げた者あれば速かに追い出すべき事

  5、自今以後(じこんいご)国人の外他国者を交置すべからざる事

  6、諸国居城の修補といえども必ず之(これ)を言上(ごんじょう)すべし、
   況(いわん)や新儀の搆営(こうえい)は堅く停止(ちょうじ)せしむる事

  7、隣国において新儀に企て徒党を結ぶ者これあるは早く言上致すべき事

  8、私(わたくし)に婚姻を締(むす)ぶべからざる事

  9、諸大名参勤作法の事

10、衣装の品混雑すべからざる事

11、雑人(ぞうにん)の恣(ほしいまま)に乗輿(じょうよ)すべかざる事

12、諸国諸侍倹約を用いらるべき事

13、国主政務の器用を選ぶべき事
 

 2条の佚遊は怠ける意。註記に好色・博奕は国を亡ぼすもとだから、特に厳しく規制すること、とある。6条の搆営は建築の意、停止は禁止と同じ意。9条の註記に、100万石以下20万石以上は20騎を過ぎず、10万石以下は相応の騎馬数で参勤するよう心得よとしている。参勤交代が制度化するのは家光の時代たが、20騎以上で参勤する者がいたのであろう。10条は君臣の上下をわきまえた服装にしろ、11条の雑人は庶民ではなく大名の家臣、乗輿は駕籠に乗ること、10条同様に身分の上下をわきまえろという意、13条の器用は能吏の意。

 武家諸法度を作成するにあたって、家康は金地院崇伝と林羅山に貞永・建武の式目を始め古記録の類を蒐集させ、その上で彼らと共に案文を練り法文へと昇華させていったようである。
 
 さて、武家諸法度は領国支配者である大名を統制する法として成立したわけで、代々の将軍は就任後にこれを諸大名に公示することが慣例となった。よって、元文の法度は確定したのではなく、8代将軍吉宗の代まで改訂されていく。特に大きな改訂は3代将軍家光と5代将軍綱吉の改訂である。
 家光の寛永12年(1635)の法度は21ヵ条(19ヵ条とする説もある)と増え、
各条が具体的になり新たに以下の条目が加わった。

1、江戸ならびに何国において、たとえ何篇の事これあるといえども、在
  国の輩はその処を守り、下知(げち)相待つべき事

1、何所において刑罰の行なわるといえども、役者の外は出向くべから
  ず、但し検使の左右(そう)に任せるべき事

1、諸国主ならびに領主など私の諍論(そうろん)致すべからず、平日須
  (すべから)く謹慎を加うるべきなり、もし遅滞に及ぶべき義あらば、
  奉行所に達し、その旨を受くべき事

1、陪臣(ばいしん)の質人を献ずる所の者、追放・死刑に及ぶべき時
  は、上意を伺ふべし、もし当座において遁(のが)れ難き義あるにおい
  て、これを斬戮(ざんりく)するは、その子細言上すべき事

1、道路・駅馬(えきば)・舟梁(しゅうりょう)など断絶なく、往還の
  停滞を致さしむべからざる事

1、私の関所・新法の津留め制禁の事

1、五百石以上の船停止の事

1、諸国散在寺社領、古(いにしえ)より今に至り附け来る所は、向後(き
  ょうご)取り放つべからざる事

1、万事江戸の法度(はっと)のごとく、国々所々においてこれを遵行(じ
  ゅんこう)すべき事
 

 2条目の役者は役目の者、担当役の者以外は出るな、検使役の指図に任せろ、という意、4条目の陪臣は大名の家臣、その家臣を追放・死刑に処する時は幕府に断れ、という意。6条目の関所は人・物の出入りの検閲、津留めは湾・河川の湊から出入りする物の検閲、関所ほど大きくない番所で物の出入りを検閲するのは口留(くちど)め番所という。8条目の向後は、今後とかこれ以降の意で、諸国にある寺社領で由来のあるものは、これ以後は保護するように、という意。遵行は従い行なう意。
 4代将軍家綱の改訂は寛文3年(1663)、寛永の「五百石以上の船停止の事」は活かしたが、荷船を例外としたこと、キリシタンの禁教、不孝者の処罰、殉死を禁止したことである。
 5代将軍綱吉の改訂は天和3年(1683)、15ヵ条にまとめられ、キリシタン禁教の条目が除かれた。そして元和以来の第1条「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」を、なんと「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に変えてしまった。第1条がこれであるから、あとは推して知るべしで、武士に要求されることが主君への忠義や父祖に仕える孝、礼儀正しい言動が支配論理となった。加えて、天和のこの法度は、大名のみならず徳川幕臣をも規制対象とすることになったのである。
 6代将軍家宣の改訂は、賄賂を戒める条目を増やし、寛永の法度で消えた元和の第2条を復活させている。起草したのは新井白石で、従来の漢文調を和文調に改めている。
 8代将軍吉宗は白石の流麗な和文調を嫌い、綱吉の天和の法度に戻した。享保2年(1717)5月25日、尾張徳川家では城中に家士を集めて、藩主継友が享保度の法度を読み聞かせた。その藩士の中に随筆「塩尻」を著わした天野信景がいた。天野は白石の草案になる武家諸法度が、反故になってしまったことを、きわめて惜しんでいる。


※元和元年(1615)七夕
 
正確に記すと慶長20年(1615)七夕、である。しかし、この年に発布された法度は、「元和令」(げんなれい)と呼ばれている。この年の7月13日から元和と改元され、6日の差があるが、大坂城陥落・豊臣滅亡は慶長20年5月8日と記し、武家諸法度の発布は元和元年7月7日と記す歴史家が結構いる。この法度に徳川新時代の印象が強いためと思われる。わたしもそれを踏襲した次第だ。
 なお、この年の閏6月13日に国持大名に対して、本城を除き他はみな毀壊(きかい)させる、いわゆる一国一城の制を強制している。

※金地院崇伝
 永禄12年(1569
)、足利家に仕えた一色秀勝の次男として生まれる。父が足利家に殉じたため、南禅寺の玄圃(げんぽ)霊山に師事して出家。文禄3年(1594)に住職の資格を得る。これ以降、建長寺・南禅寺の住職を歴任し、慶長10年(1605)37歳で臨済宗の頂点に立つ。慶長13年、徳川家康に招かれ、寺社の管理や外交文書を掌(つかさど)る。大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件を画策。「国家安康」「君臣豊楽」の難癖は崇伝の案出だとされ、「黒衣の宰相」などとも呼ばれる。寛永10年(1633)、65歳で寂。

※9条の註記
 
奈良時代の出来事をまとめた「続日本紀」(しょくにほんぎ)の天平宝字(ほうじ)元年(757)6月の制勅(せいちょく)にある、「京裡20騎以上集(つど)い行くを得ざれ」を引用している。つまり、平城京へ登るにあたって20騎以上で参勤してはならない定めであったとの註記なのだが、この註記と法度の発布が伏見城だったことから、9条は江戸ではなく京都へ参勤する場合の作法なのだとする説がある。


※参考文献:「江戸時代史 上」(三上参次 講談社学術文庫) 「近世武家社会と諸法度」 (進士慶幹 学陽書房) 「日本の近世 2」(辻達也編 中央公論社)など