■江戸の農業 説明するにあたり便宜上から江戸時代を前期と後期に分ける。前期と後期の境は西暦何年と明瞭に言えない。近世史家は概ね元禄・享保(1688-1735)以後を後期としているので、ここでもそれに倣うことにする。ただし農業においては、江戸前期は歴史の流れとして豊臣秀吉の施策、「太閤検地」が入ってくるのでご了解を願いたい。 ■前期の農業 鎌倉時代から行なわれてきた租税制度・貫高制を廃止し、石高制を布き新たに検地における面積単位を定めた。6尺3寸竿を1間とする方1間を1歩、30歩を1畝、10歩を1畝、10畝を1段、10段を1町とする町・段・畝の十進法が採用され、この単位によって土地の石高がきまった。 土地には等級があった。肥え具合、平地か斜面地か、農家から遠いか近いかなどから等級を定め、各等級ごとに1段あたりの玄米収穫高を決め、これを段別に乗じてその土地の石高を公定した(石盛と言う)。文禄3年(1594)の制では、つまり徳川家康が将軍に就任する9年前であるが、1段につき上田=1石5斗、中田=1石3斗、下田=1石1斗、畑の場合は上畠=1石2斗、中畠=1石、下畠=8斗、屋敷地は1石2斗であった。 こうして各百姓の保有地の石高が決まり(百姓持高)、村全体の土地の石高(村高)、そして大名領地の石高が決まった。年貢を直接負担するのは検地帳に記載された百姓(高持百姓)だが、大名は年貢を村単位に課した。年貢徴収法は検見法であり、酷い凶作の年は減免されたが「五公五民」「六公四民」と言う高さであり、原則的に検地帳に記載された本田畑に米麦などの食用作物以外のものを植栽することは禁止されていた。 水田の裏作(冬作)に麦、畑の夏作に粟・稗・大豆などが栽培された。肥料は村の共同採草地としての入会山(いりあいやま)で刈り取った刈敷や、馬牛などの厩肥、灰が主要なもので人糞尿は補助的なものだった。主な農具として一般の百姓=夫婦子供の単婚小家族=小農・本百姓が使用したのは平鍬だった。上層百姓は代掻きに家畜を利用し、尾張・飛騨・越中より北は馬、加賀を除いた西南は牛を用いたと言う。 鉱山掘削技術の発達を背景に治水灌漑技術が発展したため新田開発が盛んに行なわれた。豊臣秀吉の検地による全国の耕地面積は150万町歩ほどだったが、享保年代(1716-1735)に297万町歩ほどに、明治7年(1874)の地租改正では305万町歩となっており、江戸前期の拡大が殊に著しい。治水灌漑工事の多くは幕府や諸藩が推進した。年貢の増加、財源の増強からであり、耕地が拡大したからと言って百姓の利益形成の萌芽となったわけではない。が、耕地拡大の割に人口が増えなかったので、一人当たりの耕地面積及び収穫量は増加しており、労働生産性は向上したと言える。 商品作物について。商工業人口が集住する大坂周辺=畿内近郊の農村では、農産物の需要に応えることから干鰯や油粕などの購入肥料を多量に使って瓜・茄子・蕪などの蔬菜や、油菜・荏胡麻・綿実などの油料作物、麻・綿などの繊維作物、煙草などを栽培していた。しかし、こうした栽培は大都市=先進地における上層百姓が手掛けたものであり、ほとんどの百姓は年貢と自給のための農業だった。 百姓の経営形態は大きく三つの形に分けられる。 A下男・下女を使わず夫婦子供の血縁小家族の労働だけで年貢を払い、生活必需品を生産する。いわゆる自 給的小農経営で、農業経営の一般的形態で6割近くを占める。 B下男・下女を使い自らも耕作仕事をする自給的な経営だが、余剰分を売って奉公人の給金と購入肥料の支払 いにあてる地主的手作形態。 C家族の一部を下男・下女として奉公へ出し、残りの家族で他人の土地を借りて農業を営む無高=小作貧農形 態。 ■後期の農業 元禄期になると江戸・大坂・京都の人口は武士家族を除いて30万を越す。現代でも人口30万は地域の中核都市の規模だから、庶民のみで30万は当時としては大規模都市の出現である。加えて江戸・大坂・京都の周囲には宿場町や在郷町(ざいごうまち、田舎だが定期市などで賑わう土地)が発展し、これらの都市人口の需要に応えることから商業的農業が発達する。 元禄期から幕府、諸藩とも年貢米だけでは財源不足となり、商品作物の栽培を奨励するようになる。国産品に力をいれ藩の専売品として育成していく中で、商品作物の名産地が登場してくる。初めは江戸・大坂・京都の周辺に名産地が成立したが、その後は全国的な名産地が現われるようになり、寛政・享和・文化(1789-1817)頃になると阿波の藍や薩摩の煙草などが江戸へ送られるようになる。 江戸定府や数年に1度の特例はあるが毎年250以上の藩が参勤交代で移動するのであるから、宿場町が発展するのも当然、また領主の集権体制を安定させることから家臣を知行地から引き離し城下へ集住させたため、各地で小型版の江戸が出現するのも当然と言えよう。 城下に集められた何も生産しない武士に入ってくるのは年貢米だけ。年貢米を金銭に換えねばならない。米屋と両替屋が必要になる。米だけでは喰えない。塩、味噌の他におかず料理が欲しい。屋敷も普請・修理がしたい、着る物も一張羅ではせつない。ま、江戸時代の商品物流と城下町=消費都市の発展の元は、「武士の見栄」、これですね。 さて、吉宗の享保年間に「定免制」が施行される。過去数年間の平均免率(課税率)から年貢を納めさせる定免制は藩の収入を安定確保させた一方、百姓に不作の場合は厳しいが豊作の際に利益を生む機会をもたらした。殊に上層百姓は耕作するのを止め小作料の収得を専らとし、古い土地を集積しながら高利貸や質屋、酒屋を営む、まったくの地主経営となる。 この期の新田開発は前期よりも不便なより厳しい環境を開発するため上層百姓や領主の力でも難しく、大都市の富裕商人が開発主体として請け負うようになる。彼ら新田開発地主は小作人に耕作させ小作料収入を得るのが目的であり、まったくの地主経営となった上層百姓とその面では同じだが、村に居住しない町人であり農業経営に関心が薄いところが大きく異なる。そのため実際に耕作する小作人の意欲と農業生産力を阻害する要因となった。 しばしば凶作に脅かされた東北や関東を除くと、この期は百姓にとって自給生産から商品生産へ向かい利益を蓄積する機会に恵まれていたわけだが、その反面、商品生産の競争に負けて没落する百姓も多出したのであった。敗れた高持百姓は保有地を質入したり売却したりして無高の小作人となるか、消費都市の賃労働に就いたりした。初めから無高の小作人は、条件の悪い雇われ農業をやめて近くの名産地や城下町などへ出て商工業仕事に就いたり、そこから村に戻って小商いを営んだりした。従ってこの期は耕作人が離村したため田畑が手余り地となり荒廃していくのである。 新田開発が進むにつれ刈敷や秣まぐさの供給源である入会地をめぐって採草地争論=山論(さんろん)が多くなってくる。しかし、都市の出現で商品作物の栽培が発達し、これによって金銭収入が得られるため購入肥料を施すようになる。購入肥料には魚肥・油粕類・人糞尿があった。魚肥は干鰯・鰊粕、油粕類は菜種・胡麻・荏胡麻の他に綿実油の実用化によって綿実粕が重用された。人糞尿は魚肥、油粕類に比べると使用量は少なかったが、江戸・大坂・京都や各城下町の近郊の蔬菜栽培には重用された。 効果の高い購入肥料を使用したことによって地力が増し、稲と蔬菜の輪作の他、綿や藍・煙草・菜種を稲と輪作する一種の田畑輪換農法が行なわれるようになる。さらに、前期には採草地=草肥がないため耕地にできなかった平地の低湿地も田畑に開発され、刈敷を刈るための重労働から百姓を解放したことも特筆されよう。 農具は鍬身が3〜4本に分離した備中鍬が商品として販売され、牛馬を持たない小農に普及した。この鍬は鍬身分離のない平鍬に比べ深耕するのに適していた。また、病虫害への関心が高まり、鯨油を除去対策として使用するようになるのも後期からであった。 ■名産地・特産物事情 ■紅花 最上(山形県最上地方)紅花が記録に表われるのは天正年間(1573-1591)だと言う。寛文年間(1661-1672)になると生産量は500駄余りに達している。1駄は干花32貫として計算されていたので60d余りの生産量となる(1貫= 3.75`、干花16袋を1丸と呼び4丸を1駄としていた。1駄=64袋=120`、1袋=1.88`)。紅花のほとんどは京都へ運ばれ、主に西陣織の染料となった。 享保16年(1731)の各地の生産量は約1000駄であった。その内訳は最上415駄、仙台250駄、福島120駄と続き最上は半数近くに達していた。 紅花の栽培規模であるが、元禄5年(1692)の仁田村(につたむら、現・河北町)では畑地52町6反歩余りの内、紅花は15町6反歩余り。天明8年(1788)の谷柏村(やがしわむら、現・山形市)では畑地7町7反歩の内、3町6反歩余りに紅花が作られていた。 享保期以前の紅花栽培のほとんどは山形城下町の近郊や村山郡の寒河江さがえ・谷地やちなどの在町周辺に限られていた。それが享保期以降には村山郡内でも山間部の村々へと広がり、以前は町場商人が行なっていた干花加工が農村でも見られるようになる。 享保末年までの最上紅花の流通は、在地商人が京都の紅花問屋や紅花商人と自由に取り引きしていた。しかし、享保20年に幕府が京都紅花問屋14軒を仲間として公認したため、仲間以外の問屋商人が在地商人と取り引きすることを禁じた。 これに対して元文5年(1740)、寒河江・谷地の紅花商人の代表が幕府へ口上書を提出する。その内容は、仲間公認から5年の間にその公認された仲間14軒の内4軒が破産した、代金の不払いや口銭(くちせん、手数料)の引き上げが著しく、生産者にも多額の損失を与えていると言うものだった。 寛保年間(1741-1743)以降には、山形城下の花市開催の特権を与えられていた七日町・十日町・旅籠町などの紅花市以外で抜け買い、抜け売りをする者が現われるようになる。こうしたことから明和2年(1765)、仲間公認制は廃止され、そして天明年間(1781-1788)には山形城下の特権町による花市は成り立たなくなり、農村における紅花商人が成長してくるのである。 紅花は土壌が弱酸性で、生育期に朝霧のかかるところが適地とされ、最上川に支流が合流する地帯でよく栽培された。春の彼岸前後に種を蒔き、半夏(はんげ、夏至から11日目)一つ咲きをよしとし、土用入り(立秋の前18日頃)に満開となる。花摘みは6月半ば(旧暦)で17日間ほど行なわれる。摘んだ花弁は生花きばなと呼ばれ、干花加工のために上層百姓に集められた。 生花を桶に水ととも入れ、それを足で踏んだ後に花筵に広げる。2、3日日陰に寝かせた後再び桶に入れて足でもむ。すると餅のような粘りが出てくると言う。これをちぎって丸め再び花筵に並べ日当りに干す。これが干花加工と言われる工程である。 干花は紅花問屋(京都の紅花問屋は元禄期に10軒、その後14軒に増える)から紅染屋に分売され、紅染屋が紅を製造した。京都では元禄期に8軒の紅染屋があった。大坂では紅粉屋と言い安永年間(1772-1780)には33軒あり、江戸では紅花問屋を紅粉絞屋と呼び嘉永6年(1853)の問屋再興の時には28軒の紅粉絞屋が仲間を結成している。 紅の製法はどの紅染屋でも秘伝としていたが、大略は干花を桶に入れ木灰汁を振り掛けてよく混ぜる。しばらくしてから足で踏みこねていくと暗褐色の汁が出てくる。これに少量の梅酢を加えると鮮やかな紅色となる。梅酢は烏梅うばいから取ると言う。さて、汁の出加減を見て木製ロクロにかけて紅汁を絞り出す。絞り汁に綿布か麻を入れ紅を染め付ける。染め付けた布は軽く水洗いして灰汁や酢液を流し去り、これに藁灰汁を掛けよくもんで混ぜると再び紅が溶け出てくる。これをロクロに掛けて絞ると紅の濃溶液が出てくる。これに梅酢を少量加え混ぜると紅が細かい粒子となって沈殿し、これを濾過器でこす。この泥状の紅を乾燥したものが「かたべに」となり、上等品は口紅用にし、他は染色用や絵具用、あるいは細工用として菓子に使われた。 紅花の値段は寛政10年(1798)、京都の問屋が1駄63両で、嘉永7年(1854)には1駄81両で購入している。ちなみに嘉永年間(1848-1853)の米価は1両あたり3俵半ほどであった。 山形藩は元和8年(1622)に最上家が改易された後、目まぐるしく支配大名(数回幕領にもなっている)が変わっていく。その中でも明和4年(1767)〜弘化2年(1845)の78年間支配した秋元家は最も長かった。この頃山形藩の御用商人で「五人衆」と呼ばれた者たちがいた。長谷川吉郎次、長谷川吉内、村居清七、佐藤利兵衛、福島屋治助、彼らは紅花商人として財を成している。 明治になると中国産の安い紅花が大量に輸入され、国産紅花は衰退する。最上の百姓は明治10年代に薄荷はっかや養蚕へ転業するのである。 ■蚕種 信夫しのぶ郡、伊達郡(現、福島県。以下、信達地方に略)は古代から養蚕の地として知られていた。土地の多くが養蚕に適した山間傾斜地と河岸段丘であった。養蚕が本格化するのは寛文4年(1664)までこの地を領した上杉家の殖産興業策により、畑地帯への桑栽培が急速に広がり出してからである。加えて、慶長9年(1604)の白糸割符制(しらいとわっぷせい)によって中国産生糸(白糸)の貿易を独占していたポルトガル船に対して輸入制限が行なわれたので、西陣を中心に機業地の原料生糸の需要が増大したこともある。 上杉家が農村における市の開催を奨励したので、信達しんたつ地方各地に六斎市(ろくさいいち、毎月6回定期的に開催される市)が開かれるようになった。中でも伊達郡岡村・長倉村(現、伊達町)で6月14〜15日(旧暦)に開催された天王市(天王祭とも呼ぶ)は養蚕の一大市となり、生糸・蚕種・真綿などが取り引きされ寛文11年(1671)に「登せ糸」(のぼせいと)として西陣へ送られた記録もある。 天和期(1681-1683)になると柳田村(現、伊達郡梁川町)の鈴木吉之丞が早生桑(わせくわ)の新品種を作り、「吉之丞早生」と呼ばれて元禄以降盛んに栽培されたり、他に「六之丞桑」「市平桑」と呼ばれる改良桑もあり蚕業技術も発展した。 信達地方の中央を阿武隈川が流れている。阿武隈川沿いで産する桑の葉は、水霧をおびて良質だったため、その桑で育てられた蚕からできる繭の糸は品質がよかった。こうした地の蚕種は信達地方の中で販売されていたが元禄期(1688-1703)以降になると、それまで全盛だった結城(ゆうき、茨城県結城市)の蚕種を凌ぐようになり関東甲信越はもとより西国へも販路を拡大するに至る。 知れ渡ると偽物が出てくるのが世の常、安易に儲けようと「本場福島種」を騙り粗悪な蚕種を販売する者が現われる。これを防ぐことから安永元年(1772)に「改印」が登場する。きっかけは関東の商人二人が幕府へ、自分たちを蚕種の改方(あらためかた、検査役)に任命してくれれば、改賃として種紙(たねがみ、蚕卵紙)一枚につき銀一分ずつ取り立て冥加金250両を上納すると申し出たことにある。地元の商人は賛成したが零細生産者は重い負担になると反対したが、幕府は反対者の要望を入れて「改印」を実施する。信達地方の蚕種は冥加金180両を納入する代わりに「本場種」の称号が認められた。呼称には「本場」と「場脇」があった。小幡、岡、長倉、梁川など17カ村が本場、箱崎、柳田など8カ村が場脇となった。 これによって信達の蚕種は販路が拡大した。が、それは一時だけだった。 冥加金を納入することから高値となりながらも、本場ブランドを獲得したからと売り上げを見込んで生産が過剰となった。他の地方の蚕種の生産制限がされたわけではないので、市場には安い蚕種も売られていた。従って競争に破れる事態が生じて来た。蚕種農家は安永6年(1777)に冥加金と改印の一年休止を申し出る。幕府は翌7年から天明3年(1783)までは冥加金の半額上納としたが、天明元年に全廃を訴願したため制度は天明3年で廃止となった。 その後の信達地方は養蚕技術の向上をはかり、安政の開港で一層の活況を呈して行く。下の写真は幕末元治元年(1864)に幕府桑折代官所が発行した「蚕種鑑札」である。この頃、125文を払うと鑑札が発行された。
養蚕技術については掛田村(現、福島県伊達郡霊山町)に生まれた佐藤友信が著した、「養蚕茶話記」(明和3年)と「養蚕茶話後編」(天明3年)がある。元禄頃の育て方は「天然育」と言う火力を使わず自然の気候にまかせるものだったが、正徳期(1711-1715)から後に「清涼育」と呼ばれる方法が行なわれ、湿気を嫌う蚕に火気を有効に利用することが説かれていると言う。 寛政期(1789-1800)には梁川の田口留兵衛るへいにより炭火を利用する「温暖育」が始められ、弘化3年(1846)には同じく梁川出身の中村善右衛門によって「蚕当計」が完成している。蚕当計は当時診断に用いられていた体温計をもとに考案された寒暖計である。善右衛門の生まれた中村家の蚕種は「中佐」の銘で有名であり、開港後はヨーロッパへ輸出され{世界一」という名で呼ばれた最良質のものだった。 ※参考資料 「山形県の歴史」「福島県の歴史」(共に山川出版社) 「図説山形県の歴史」「図説福島県の歴史」(共に河出書房新社) 「体系日本史叢書11」(山川出版社) |