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慶安軍役人数割                                                                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

軍役規定
 
徳川幕府による江戸時代、武士の中の武士と自他ともに認めていたと思えるのが、将軍家直臣、中でも旗本である。持って回った言い方をすれば、徳川家康の父祖の松平氏が三河の国人領主であった頃から代々仕え、また家康一代の間に臣従し、家康の直属配下の従臣であった者ということになる。
 しかし、時代が下るにつれ、彼ら直参旗本の生活を苦しいものにしていくのが「慶安軍役人数割」であった。将軍家の常備軍団として日常的に兵力を確保するように命じられた軍役規定だった。
 下の表は慶長10年の初の軍役規定から最終的に確定する慶安2年の軍役規定をまとめたものである。これらの人数は、「若軍役於不足之族有之者、急度可為曲事、軍役之外者嗜次第召連可為忠節者也」(「徳川禁令考」前集第一より)とあり、不足の者は違反処罰し、規定数を超える場合は忠義者と見なすわけで、軍役規定の人数が最低限の数字だと知られる。
 寛永10年の軍役規定から10万石の大名まで対象としている。これは大坂冬・夏の陣が終わり、その論功行賞から1万石以上の大名へ取り立てられた、いわゆる譜代大名である。譜代大名で10万石以上(10万石及び10万石格は除く)は時代が下るが寛政6年(1794)時で12家しかないから、軍役規定はほとんどの旗本・譜代大名を対象としていることになる。が、10万石以上の譜代12家、家門(親藩)6家、御三家も軍役規定を基準に(幕府による行政指導もあったであろう)兵力を保ったものと思われる。ちなみに10万石以上の外様は17家。
 では外様大名は軍役規定を基準にしなかったのかといえば、基準にしたのではないかと思われる。というのも、慶安2年に確定された軍役規定の1万石から10万石の中身は、寛永10年時のものと同じであり、参勤交代が法制化される寛永12年(1635)よりも早い。参勤交代の供揃えは軍役規定に準拠して行われているから、外様大名も軍役規定を基準にせざるを得なかったと思われるのである。

 将軍家直参は狭義では旗本を指す。旗本と御家人の違いは一般に将軍に謁見できるかどうか、といわれる。が、本郷丸山新町の内藤家は20俵2人扶持でもお目見であった。こんな例はいくつかあり、逆に200石以上旗本説にも240石を知行していた鈴木家はお目見以下というのがある。しかし、どこかで区切るとすれば、わたしは軍役規定は200石からなので、200石以上をもって旗本としたい。
 旗本は何家(人)あったかであるが、勝海舟の「吹塵録」、松平太郎の「江戸時代制度の研究、内閣文庫本「御家人分限帳」、「日本財政経済史料」を典拠する資料本数冊からすると、江戸期を通じて5100〜5200家あったようだ。ちなみに御家人は1万7000余家。9500石の横田家を筆頭に3000石以上が240余家、3000石以下500石以上が1370余家、500石以下200石が3500余家あった。

 軍役規定が旗本の生活を苦しいものにした例として時代は下るが、幕府御家人の栗原伸充が弘化2年(1845)に著わした「柳葊雑筆」(「日本随筆全集」第八巻)に、以下のような300石の旗本の家計を町人と比較した記事がある。

「大都の商人店に長少打交せ(年寄子供を入れて)四、五人あるべし。内に妻子眷属(血族)下女等まで、又四、五人合せて八、九人の家にては、精米一年に十四石四斗許(ばかり)、薪四両二分許、炭三両二分許、大根漬一両三分許、菜蔬の料、家具の料十四、五両、衣服の料又十七、八両、普請の料六、七両、給金八、九両、地代廿二、三両(22、3両)、都合百両余を費すべし。百両の利を得るには千両の本貨(資本)なくては叶はず。(中略)是(これ)を武家の録に比するに百両は三百石に准ず。三百石の家にては、侍二人、具足持一人、鑓持一人、挟箱一人、馬取二人、草履取一人、小荷駄二人の軍役と寛永十年二月十六日の御定なり。今の世の価にて侍二人の給金八両、中間(ちゅうげん)八人の給金廿両、馬一疋(匹)秣代(まぐさだい)九両を与へ、又十人の扶持五十俵を与ふれば残百三十九俵あり。其内(そのうち)十人の者に塩味噌薪代十三両を与へ、然(しかし)て後が我が勤と武具家具普請の入用六十両を引き妻子下女等と共に四、五人の費用卅(30)両許として総(すべ)ては五十両余を用ふべし。百三十九俵を売りて四十六両少余なり。此の法にては年分(一年間)三両余の不足となる。寛永十年より弘化二年まで二百十二年の間三両余の不足積りて六百三十六両の借金となれり。三百両の借金なれば、利息年分三拾(30)両を払ふても百両の金僅かに七十両に滅す。依(よ)つて十人の下僕を育(やしな)ふことにあたわす。是れを省いて漸く其の日々を過すのみに至る。これ武家の禄法を察知する一端と云ふべし」

 この随筆には根本的な誤認がある。軍役規定が寛永10年のもので計算しているのがそれで、寛永10年の軍役規定は確定前のもので、慶安2年の軍役規定が最終的に確定した数値である。よって侍、馬口取、小荷駄が各1人ずつ多く、計10人ではなく7人である。なぜ、幕臣栗原が誤認したのかといえば、彼の周囲に軍役規定通りの供揃いを確保している旗本家が皆無だったからだと思う。軍役規定を守っていたら家計のやりくりが大変だったためで、※登城や公式の挨拶回りを除けば規定の人数を揃えなかった(公式の際は口入屋から周旋してもらい従者を臨時に雇い入れた)。300石の家で常時雇っているのは3人ほどであったろう。周囲がこうした状態だったので栗原は本来の軍役規定を調べたのだが、昔のことなので寛永10年の規定を確定数値と誤認したのであろう。
 さて、従者が3人減れば、年3両余りの不足は出ないと思われる、が、幕臣栗原は推敲しないのか文章好きの文章下手の類いか、算用が苦手な武士だったのか、家計はやはり不足となるのである。幕臣栗原が算用の苦手だった証拠は寛永10年から弘化2年の212年間の物価変動を無視している点である。
 では文章に沿って計算してみよう。まずは米の値段である。「江戸物価事典」にあたると弘化2年の白米の小売値は1石あたり銀90〜100匁、1石=10斗=100升であるから白米10升は銀9〜10匁。公定相場だが、1両=銀60匁だから白米6斗は1両弱となる。これを商家の精米1年14石4斗に適用すると、144斗を6斗で割ると24。6斗は1両弱であるから24両弱となる。商家の費用で値段を書き出してあるものを足すと、76〜80両ほどになり、値段が出ていなかった精米1年14石4斗を加えると100両余りに合致する。
 それでは300石の旗本の米の値段はいくらだったのか。これである。139俵を売ったら46両弱だったとある。1俵は玄米4斗であるから139俵に4斗を掛けると556斗、これを46で割ると、ほぼ12斗となり、1両あたり玄米12斗の値段と知られる。この値段は米問屋へ売った値段であるから卸値である。玄米を搗いて白米(精米)にすると2割減るから12斗は9.6斗になる。9.6斗を1両で米問屋は仕入れた形だが、小売値は6斗が1両だから3.6斗が儲け分となったわけで暴利といえる。
 
 旗本の家計に戻る。江戸期の年貢徴収率は時代地域により色々だが、4公6民を基準にすると、300石の知行取りは120石の年貢米を手にしたことになる。120石を斗になおすと1200斗、これを12斗で割ると100。随筆の通り300石の知行取りは当時100両で売れる玄米を手にしたわけだ。4斗俵になおすと300俵となる。知行取り300石は蔵米取り300俵と数字上は同じなわけである。
 随筆に戻り、侍1人と中間2人を減らした経費を計算しよう。まず侍1人分の4両がなくなり、中間2人分の5両がなくなり、計28両の給金が19両となる。10人への扶持50俵は単純に7割掛けで35俵に減ったとしよう。従者10人+馬の軍役を引くと139俵が残ったとしているから、これに9両×12斗の108斗=27俵と15俵を加えると、181俵が残った計算になる。金額になおすと60両ほどになる。
 この残った内から10人へ塩味噌薪代13両を与えている。これも単純に7割掛けで9.1両だが9両としよう。60両から9両引くと51両。
 この51両から、「我が勤と武具家具普請の入用六十両を引き」とある。すでにマイナスではないか。続いて文章は、「妻子下女等と共に四、五人の費用
卅両許として」とあるから、当主と妻子下女の5人ほどの日常生活費が30両くらい掛かるとしている。これで残った51両から60両と30両を引くことになるが、続く文章、「総ては五十両余を用ふべし」とあり、本来は60両+30両=90両の経費となるところを50両余りに節約しているとしている。
 同輩や親類との交際は最低限に切り詰め、具足や家屋敷、従者の長屋、厩舎の手入れも最低限に節約しているわけである。娯楽などは無に等しかったであろう。

※登城従者数
 
寛文6年(1666)7月に旗本の従者数の制限があった。「御触書寛保集成16」によると、200石は1〜2人の徒侍、300〜900石は2〜3人の徒侍、1000〜2000石は4〜5人の徒侍、3000〜4000石は6〜7人の徒侍、5000〜9000石は8〜10人の徒侍。軍役人数割とは関係なく、威勢を張るなという意味があったものと思われる。というのは、同じ年の4月に武家の嫁娶(よめとり)行列の制規が出されているからである。「徳川実紀」によれば、「輿添(こしぞえ)の牽馬(ひきうま)は10匹まで、従者の槍は20柄まで、各家から出す辻固めは侍2〜3人と足軽5〜6人、長柄・幕は不要、提灯は処々に2〜3を出す、在府の大名従者の牽馬2〜3匹、槍2〜50本まで」。
 理由はともあれ、これ以降、登城や江戸町中往還の際は歩兵侍の数は上記のようになった。が、槍持・草履取・挟箱持などの中間小者の数には言及しておらず、また、これらは格式・用途上から減らせないものでもあった。歩兵侍の数に準拠調整したのかどうかは分明でない。




軍役規定の各年代表について

 戦いというものは、その場になってみないと規模や地形などは判らない。柔軟敏速に兵力を動員するには、定まった軍役規定は邪魔であった。しかし、兵農分離によって家臣を城下町へ集住させる時代になると、領主としては家臣に定まった軍役規定の下で兵力を確保させておくことが必要であった。
 徳川将軍家には慶長10年(1605)まで定まった軍役規定がなかった。それ以前は時々の戦いに応じて定めていた。この年は秀忠が2代将軍に就任し、外様大名や豊臣秀頼の大坂方との緊張から、この軍役規定が定められたものと思われる。
 知行高500〜5000石の旗本へ軍役を課したものであるが、9年後の慶長19年(1614)に慶長10年時の知行1000石の鑓5本を10本に改め(他はすべて同じ)、大坂冬の陣に備えている。
 大坂夏の陣が始まった元和元年(1615)4月には知行1万石の軍役を加えている。この時の軍役規定は元和2年に公布した軍役規定と同じである。
 慶長10年〜元和2年の軍役規定の流れを見ると、鉄炮・弓・騎士の数は変わらないが、鑓が半減近くまで少なくなったことである。大坂冬の陣では鑓は想定したほどには使用せず、この経験が夏の陣に活かされたものと思われる。
 なお、ご承知のように鑓5本とか10本というのは鑓のみではなく鑓を持つ従者が5人、10人いるということで、鉄炮、弓、馬、旗も同様である。
 寛永10年の軍役規定には200〜900石も制定されている。表にしなかつたのは、わたしが参照して表を起こした資料、「徳川禁令考 前集第一」(司法省蔵版 石井良助校訂 刊行創文社)に掲載されていなかったためである。別資料とした、「旗本知行所の研究」(川村優 思文閣史学叢書)に兵員数のみ掲載されているので、以下に記す。

 200石    8人
 300石  10人
 400石  12人
 500石  13人
 600石  15人
 700石  17人
 800石  19人
 900石  21人

 寛永10年の軍役規定は元和2年のものと比べると強化されるが、慶安2年の軍役規定では軽減される。慶安2年は3代将軍家光の晩年にあたり、戦乱は終息し上洛も行われなくなったことが軽減につながったと思われる。
 旗本の知行所総高を260万石とし、これを平均500石で割ると5200家、これに軍役11人を掛けると5万7200人、これに御家人1万7000余人を加えれば7万4200人。いわゆる「旗本八万騎」に近い数字となる。10万石の大名の軍役は2155人だから、これが34家も連合しないと幕府直臣団と拮抗できなかったことになる。

 文久2年(1862)、この年の1月老中首座安藤信正が坂下門外で傷害され、2月に将軍家茂と和宮が結婚、4月に寺田屋騒動、閏8月に参勤交代を緩和し妻女らの帰国を許可する。そして12月、慶安2年から220年間にわたり旗本を規制してきた軍役規定が半減(1万石以下)され、兵員の銃隊銃手化が始まる。この年以降軍役の金納が進んでいく。
※赤字は「徳川禁令考 前集第一」司法省蔵版に欠けていた箇所。水喜が補足したもの。 


       ■慶長10年(1605)
  500石  鉄炮 1挺    鑓 5本     
1000石  鉄炮 2挺  弓 1張  鑓 5本  馬上 1騎  
2000石  鉄炮 3挺  弓 2張  鑓20本  馬上 3騎  旗1本 
3000石  鉄炮 5挺  弓 3張  鑓30本  馬上 4騎  旗1本 
4000石  鉄炮 6挺  弓 4張  鑓40本  馬上 6騎  旗2本 
5000石  鉄炮10挺  弓 5張  鑓50本  馬上 7騎  旗3本 

       ■元和2年(1616)6月
 500石  鉄炮 1挺     鑓 3本持鑓共     
1000石  鉄炮 2挺  弓 1張  鑓 5本持鑓共  馬上 1騎   
2000石  鉄炮 3挺  弓 2張  鑓10本持鑓共  馬上 3騎   
3000石  鉄炮 5挺  弓 3張  鑓15本持鑓共  馬上 4騎  旗1本 
4000石  鉄炮 6挺  弓 4張  鑓20本持鑓共  馬上 6騎  旗1本 
5000石  鉄炮10挺  弓 5張  鑓25本持鑓共  馬上 7騎  旗2本 
  1万石  鉄炮20挺  弓10張  鑓50本持鑓共  馬上14騎  旗3本 

  ■寛永10年(1633)2月
1000石   23人  鉄炮   1挺  弓 1張                 持鑓2本     
1100石  25人  鉄炮   1挺  弓 1張                 持鑓3本     
1200石  27人  鉄炮   1挺  弓 1張                 持鑓3本     
1300石  29人  鉄炮   1挺  弓 1張                 持鑓3本     
1400石  31人  鉄炮   1挺  弓 1張                 持鑓3本     
1500石  33人  鉄炮   2挺  弓 1張                 持鑓3本     
1600石  35人  鉄炮   2挺  弓 1張                 持鑓3本    
1700石  37人  鉄炮   2挺  弓 1張                 持鑓4本     
1800石  39人  鉄炮   2挺  弓 1張                 持鑓4本     
1900石  41人  鉄炮   2挺  弓 1張                 持鑓4本     
2000石    鉄炮   2挺  弓 1張                  鑓  5本     
3000石    鉄炮   3挺  弓 2張                  鑓  5本 馬上    2騎  
4000石    鉄炮   5挺  弓 2張                 鑓10本  馬上    3騎  旗  1本 
5000石    鉄炮   5挺  弓 3張                 鑓10本  馬上    5騎  旗  2本 
6000石    鉄炮  10挺  弓 5張                  鑓10本  馬上    5騎  旗  2本 
7000石    鉄炮  15挺  弓 5張                  鑓10本  馬上    6騎  旗  2本 
8000石    鉄炮  15挺  弓10張                  鑓20本  馬上    7騎  旗  2本 
9000石    鉄炮  15挺  弓10張                  鑓20本  馬上    8騎  旗  2本 
    1万石    鉄炮  20挺  弓10張  鑓  30本但長柄持鑓共  馬上  10騎  旗  3本 
    2万石    鉄炮  50挺  弓20張  鑓  50本但長柄持鑓共  馬上  20騎  旗  5本 
    3万石    鉄炮  80挺  弓20張  鑓  70本但長柄持鑓共  馬上  35騎  旗  5本 
    4万石    鉄炮120挺  弓30張  鑓  70本但長柄持鑓共  馬上  45騎  旗  8本 
    5万石    鉄炮150挺   弓30張  鑓  80本但長柄持鑓共  馬上  70騎  旗10本 
    6万石    鉄炮170挺  弓30張  鑓  90本但長柄持鑓共  馬上  90騎  旗10本 
    7万石    鉄炮200挺  弓50張  鑓100本但長柄持鑓共 馬上110騎  旗15本 
    8万石    鉄炮250挺  弓50張  鑓110本但長柄持鑓共  馬上130騎  旗20本 
    9万石    鉄炮300挺  弓60張  鑓130本但長柄持鑓共  馬上150騎  旗20本 
  10万石    鉄炮350挺  弓60張  鑓150本但長柄持鑓共  馬上170騎  旗20本 

 ■慶安2年(1649)10月
  200石        5人  侍1人 甲冑持1人 鑓持1人 馬口取1人 小荷駄1人 
  250石        6人        同上 
  300石        7人  侍1人 甲冑持1人 鑓持1人 草履取1人 小荷駄1人 挟箱持1人
馬口取1人 
  400石        9人  侍2人 甲冑持1人 鑓持1人 草履取1人 挟箱持1人 小荷駄2人
馬口取1人 
  500石      11人  侍2人 甲冑持1人 立弓持1人 鑓持1人 草履取1人 挟箱持1人
馬口取1人 小荷駄2人 
  600石      13人  侍3人 甲冑持1人 立弓持1人 鉄炮1人 鑓持1人 草履取1人
挟箱持1人 馬口取1人 小荷駄2人 
  700石      15人  侍4人 甲冑持1人 立弓持1人 鉄炮1人 鑓持2人 草履取1人
挟箱持1人 馬口取2人 小荷駄2人 
  800石      17人  侍4人 甲冑持1人 立弓持1人 鉄炮1人 鑓持2人 草履取1人
挟箱持1人 馬口取2人 小荷駄2人
  900石      19人  侍5人 甲冑持2人 立弓持1人 鉄炮1人 鑓持2人 草履取1人
馬口取2人 沓箱持1人 挟箱持2人 小荷駄2人 
1000石      21人       1000石〜10万石まで寛永10年と同じ 
1100石      23人   
1200石      25人   
1300石      27人   
1400石      28人   
1500石      30人   
1600石      31人   
1700石      33人   
1800石      35人   
1900石      36人   
2000石      38人   
3000石      56人   
4000石      79人   
5000石    102人   
6000石    127人   
7000石    152人   
8000石    171人   
9000石    193人   
  1万石    235人   
   2万石    415人   
   3万石    610人   
   4万石    770人   
   5万石  1005人   
   6万石  1210人   
   7万石  1463人   
   8万石  1677人   
   9万石  1925人   
 10万石  2155人