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吉原の謎                                                                                                                                         江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 
 

記03/03.07
■左の図は随筆集「半日閑話」(日本随筆大成第1期第8巻、吉川弘文館) の283Pから転載したもの。「半日閑話」は大田南畝(おおたなんぽ)
の雑記帳「街談録」を没後に他の雑文など(没後に書かれた南畝以外の人の雑記もある) を増補して纏められた巻本である。南畝については後々詳述したいと思っているが、江戸時代を代表する狂歌師、戯作者である。南畝は号、他に寝惚先生、四方赤良、四方山人、蜀山人など数々の名乗りを持つ。寛延2年(1749) に70俵5人扶持の御徒(おかち、御家人) の家に生まれ、名を直次郎という。

 さて、図のことだが南畝は、「新吉原焼失並火竜骨 明和五年四月五日夜丑三刻、新吉原五丁町より出火して、廓中残らず焼る。火元は四つ目やとかや。焼灰の中よりあやしき骨出たり。火竜といふ。」と記している。図で示された頭骨の主な部分の長さは、頭頂から首まで45.5a、頭から嘴の先まで91a余り、嘴45.5a、眼穴9a、鼻4.5a。

 これはいったい、なんだろう。現存する動物で可能性があるのは、ワニかオオトカゲくらいだろう。だが両種とも頭骨はこのようにはならない。首の骨の形、眼と鼻の位置がまったく異なるのだ。南畝は機知はあるが悪ふざけをする人ではなく、この年(20歳)から「街談録」を書き始め、意気込んで市井に取材をしただろうから空想図ではないと思う。では何か。おそらく鼻と書いてある部分は眼窩、眼穴は爬虫類の多くの種に見られる「側頭窓」だと思う。鼻は嘴の先つまり上顎の先にあったはずで、南畝の見落としであろう。
  ワニ、オオトカゲの生息地にジャカルタが含まれている。ジャカルタはオランダ東インド会社の拠点であった。さあ、あなたはどう推理するのだろうか?


■推理して投稿を乞うページとしてスタートしたが、最後の投稿から一年以上経過してしまった。当初は面白可笑しくやって行こうと考えていたが、当方の推理の投げ掛け方に問題があったようだ。
 しかし、この推理自体大変難しいものであり、頻繁に投稿があったとしても、正解とする裏付け史料を当方が持っていないため不毛なページになった公算が強い。
 とは言え、投稿がないからと削除するには、手前味噌ではあるが惜しいページである。よって、「こんなことがあったのだな」と今後皆さんに感じていただきたいので、「吉原の謎」と改め掲載しておくことにした。                                                                             


03/04.16着             はるさと。さん(サイ ト「おさんぽ☆くらぶ」管理人)
                           
 
  南畝が見たという火竜の頭骨、 これの現物が保管されたとか売られたという記録はないのかッ、とか、動物の骨の写真がたくさんある本はないかッ、とか、南畝は本当に鼻の部分を見落としていたのかッ、とかとか、できれば推理ではなく検証をやってみたいなという気もするのですが、あえてお気楽に「推理」でいきます。
  当時の中国で龍骨というと、薬に使われる亀や牛の化石を指していたはずで、源内が言っていた龍骨も、おそらくこれを指しているのだろうと思います。ただ、南畝が見た火竜の骨、これも同じものを指しているのか。そこのところは、分からないとしか言いようがありません。「推理」するなら、これは「サメ」ではないかと思います。
  サメは化石にならないので、これは化石だったのではなく、この「火竜」は、火事の前には生身でそこに存在していて、 火事で一緒に焼け出されてしまったのではないか?と。サメなら当時の日本でも結構広い地域で獲ってますし、なにしろ江戸は海に面した土地柄。何かの折にまるごと運んできたということも、ありうるかも?吉原のことですし、派手な余興の類として。明和年間・田沼時代というと、そういう「遊び」に対して、お上があまりうるさくなかった時代ですし。東京湾あたりで獲れたかどうかや、江戸の人がサメを食べたかどうかは、不勉強でよく分かりませんが、サメって獲ってからも、けっこう保つらしいですね。だから広島の山奥の方で、サメを食べる習慣があったりするとか。
  実を申しますと。「ワニ」つながりで、これをワニと呼ぶ地方もある「サメ」。讃岐生まれの源内が小豆島産と言っていたので、西日本の海。で、45cmの嘴(?)を持つ生き物……そんなところから思いついた、推理というより、こじつけなのです。


■こんなに早く投稿を頂けるとは想いの外。嬉しいです。こじつけ大いに結構です。仮説はこじつけから始まると水喜は思っています。
  さて、サメのことですが「江戸語の辞典(講談社学術文庫) に、鱶(フカ)
を意味し肉は臭気があり蒲鉾に製し、皮は刀の柄・鞘に巻くとあり、併記して源内の宝暦13年刊の「根南志具佐(ねなしぐさ)から「玉蜀黍(とうもろこし)は鮫をかざる」を例に出しています。サメ皮の模様はトウモロコシに似て粒々状なんですね。
  フカと言いますと、当時の唐人貿易で俵物三品(たわらものさんぴん)と呼ぶ日本からの輸出品がありました。煎海鼠(いりこ) 、干鮑(ほしあわび) 、鱶鰭(ふかひれ)がそれで、銅の公式代替品として元禄11年(1698)に指定されています。
  また、鰐(ワニ ) は鰐鮫(ワニザメ)
のことで大型のサメ類を意味し、「鰐が魅入れる」なる江戸言葉があり、鰐に見込まれて船が動かなくなった時、船客に手拭・鼻紙などを海へ投げ込まさせ、その品が海中へ巻き込まれた持主をいけにえとして海へ投身させれば船が動いたとの説明があります。併記して明和2年の柳多留(やなぎだる、川柳集)から「吉原の鰐が見入れて紙が散り」を挙げており、これは遊女と客を、鰐と船客に見立てて揶揄したものです。
  サメの骨に関しては、木内石亭が「天狗爪石」と呼んでいる石があります。大石の中や海中の小石礫の中から発見していますが、今日ではサメ類の歯の化石と見られています。なお、サメ類の骨格は軟骨から成っていますので、焼け跡に残るかどうか・・・さて?判りません。 
 
 

03/04.13                        水喜

■この推理ページはお遊びで軽い気持ちで作ったつもりなのだが、硬く時代考証してから推理しましょうと思っているのか、moeさん以後まったく音沙汰なしだ。初めは水喜も1カ月にメールが一通くれば上等と思っていたが、数日してmoeさんからメールが来たので、しかもシアトルからだったので、これは結構いけるぞと当初の弱気が消し飛んだ。だが、糠喜びだった。
  ちょっと困った水喜はこの1週間、歴史関連や推理関連のサイト30ほどの掲示板に推理を促す書き込みをした。が、メールは来ず。当の掲示板の水喜の書き込みにresを付けてくれてはいるが、あえてこちらには送ってこない。
面白半分でいいんだが、構えてしまうようだ。しかし、水喜も反省している。さあ、どうだ、と言わんばかりの「推理してくれ」である。そこで、時代背景を含めもう少し当時の事象を紹介しておこうと思う。画像が荒いのはトリミングを繰り返した後、画像の容量を落としたためで、見にくいがそれらしい感じはつかめると思う。
     
■怪しい頭骨が出てきた明和5年(1768)は、その前年に田沼意次が側用人となって執政に列座した年、その翌年は老中格となり、いよいよ田沼が裏側から政治の前面に登場してくるという時代。田沼の政策は従前の年貢に依存する幕府財政を、貨幣改鋳や商人仲間からの冥加金の上納、大規模新田開発、貿易などへ転換を企図するものだった。
 例えば本草学
(ほんぞうがく)
。この学は植物のみならず、薬用になる動物、鉱物、の産地や効能を研究するのだが、博物学の色合いも濃い。当時、本草学者として日の出の勢いにあったのが平賀源内。源内は様々な事に首を突っ込んでいるが、本来は本草学者であり本草学を物産学へ師匠の田村藍水と共に導いた最初の人物である。また、源内は大田南畝の処女作「寝惚先生文集」(明和4年刊) の序文を書いており、南畝の戯作の師匠筋にあたる。明和5年当時の源内は40歳、田沼50歳、ついでに3年後に「解体新書」の翻訳に着手する杉田玄白36歳。
 
 話を戻す。田沼の政策と本草学の関係である。唐・阿蘭陀から輸入する薬種による日本の金・銀・銅(主にこの当時は銅) の流出を止めるべく、その代替品の開発、あるいは輸入しなくてもいい国産品の開発がすなわち国益につながるとの認識から、田村藍水は朝鮮人参の国産・市場化を果たし、源内は砂糖や鉱物の研究に熱心であった。そして、全国へ呼びかけこれまでにない珍品を集めて湯島で薬品会(やくひんえ、博覧会)を開催して、これを本に纏める。

■この本が宝暦13年(1763)刊「物類品櫛隲」(ぶつるいひんしつ)
で、日本で初めて本草を14部に分類した画期的な源内の書である。ここまで能書きが長かったが、この「鱗部」の中で「龍骨」について源内がこう書いている。
 「讃岐小豆嶋産、上品海中にあり、漁人網中に得たりと云。其骨甚大にして形体略具(ほぼそなえ)る。之舐むるに舌着け之用いる。其効験本草の主治と合す。是れ真物疑ふべきなし。近世漢渡の龍骨あり。是一種の石にして真物にあらず。木化石に近し」

 と、日本の物こそ本物でよく効くと言っている。源内は国益から書いているのだが、物それ自体を愛でる人がいた。石マニアの木内石亭(きうちせきてい)である。木内は明和5年は45歳。日本の考古学の祖とも言える人物だ。源内とも交流があり薬品会にも出品している。上の左図(西遊寺蔵)は木内が著わした「龍骨記」に掲載されているもの。この書の中で木内は、諸国の山海で少なからず龍骨は発掘されているとし、頭の大なるものは口中に人1人を隠すほど、歯の大なるものは枕二つ合わせたばかりで上下48枚、あるいは36枚、と述べている。木内の処女作は安永元年(1772)の「雲根志」。全国の奇石の集成記で、好評だったという。南畝の「半日閑話」にも紹介されている。
 
ところで、この龍骨は現代ではナウマン象などの化石だというが、ナウマン象に角があったっけ?当時の先端を走っていた木内は、文字通り龍の骨だと信じていたようである。

■上の中図(「咄の絵有多」挿絵)
 の黒丸内の図柄は、吉原の遊女屋の入り口柱に貼られた魔除けの札「角大師」(つのだいし) 。2本の角が生えた鬼の像の札。吉原に限らないが、これを門柱に貼る習いがあった。

■上の右図(「四方の巴流」挿絵)は吉原のみで行われた「狐舞い」。除夜の晩に遊女屋へ、狐の面をかぶり御幣をかつぎ鈴をもった男が、太鼓のはやしを連れて舞い込むのである。遊女たちは逃げ回る。狐に抱きつかれると、その年に孕むと言われるからだ。

■新聞錦絵というものがあった、と高橋克彦氏は「浮世絵ミステリーゾーン(講談社文庫)
で書いている。明治7年から登場したらしい。103ページの「東京日々新聞六百九十七号」に船を覆し人を襲うワニの錦絵が掲載してある。三重県志摩の付近を通り掛かった商船が船火事を起こし、海に飛び込んだ船乗りをワニが飲み込んだのだという。高橋氏は調べた。ワニは淡水に生息するものと信じ込んでいたが、海に生息し長い距離を渡るワニが1種だけ存在する、オーストラリアから東南アジアの近海に住むイリエワニがそれだ、と氏は書いている。性質は狂暴で体長は軽く10メートルを越える。

■以上、余計なことは書かず(書いたかも?)に事象を挙げた。気軽にメールを送ってほしい。許諾を得た上でここに掲載させて頂く。
※主な参考文献・中野三敏著「内なる江戸」弓立社 斎藤忠著「木内石亭」吉川弘文館など
 

03/03.11着              moeさん

 コーヒーの研究をしたくてシアトルに留学で来ています。こちらのHPは2月の末くらいから拝見しています。怪しい頭骨のことですが、わたしこういうの好きなヒトで、うーん笑わないでほしいんだけど、これは陶器ぢゃないかと・・・カンなんですけど。ほら、お祭りとかで使ったんぢゃないかと思います。


投稿有り難うございます。しかし、まさかシアトルとは。それも初の投稿が ! どういった経路でこちらへ ? と穿鑿したくなりますが、陶器ですか。これは予想外の推理で途惑っております。ですが、吉原の近くの町に「今戸町」という所がありまして、ここで今戸瓦と土器を作っておりました。お祭りのほうですが、これはよく判りません。