記03/03.07 |
■推理して投稿を乞うページとしてスタートしたが、最後の投稿から一年以上経過してしまった。当初は面白可笑しくやって行こうと考えていたが、当方の推理の投げ掛け方に問題があったようだ。 |
03/04.16着 はるさと。さん(サイ
ト「おさんぽ☆くらぶ」管理人) | |||
03/04.13
水喜 ■この推理ページはお遊びで軽い気持ちで作ったつもりなのだが、硬く時代考証してから推理しましょうと思っているのか、moeさん以後まったく音沙汰なしだ。初めは水喜も1カ月にメールが一通くれば上等と思っていたが、数日してmoeさんからメールが来たので、しかもシアトルからだったので、これは結構いけるぞと当初の弱気が消し飛んだ。だが、糠喜びだった。 ちょっと困った水喜はこの1週間、歴史関連や推理関連のサイト30ほどの掲示板に推理を促す書き込みをした。が、メールは来ず。当の掲示板の水喜の書き込みにresを付けてくれてはいるが、あえてこちらには送ってこない。面白半分でいいんだが、構えてしまうようだ。しかし、水喜も反省している。さあ、どうだ、と言わんばかりの「推理してくれ」である。そこで、時代背景を含めもう少し当時の事象を紹介しておこうと思う。画像が荒いのはトリミングを繰り返した後、画像の容量を落としたためで、見にくいがそれらしい感じはつかめると思う。 例えば本草学(ほんぞうがく) 。この学は植物のみならず、薬用になる動物、鉱物、の産地や効能を研究するのだが、博物学の色合いも濃い。当時、本草学者として日の出の勢いにあったのが平賀源内。源内は様々な事に首を突っ込んでいるが、本来は本草学者であり本草学を物産学へ師匠の田村藍水と共に導いた最初の人物である。また、源内は大田南畝の処女作「寝惚先生文集」(明和4年刊) の序文を書いており、南畝の戯作の師匠筋にあたる。明和5年当時の源内は40歳、田沼50歳、ついでに3年後に「解体新書」の翻訳に着手する杉田玄白36歳。 話を戻す。田沼の政策と本草学の関係である。唐・阿蘭陀から輸入する薬種による日本の金・銀・銅(主にこの当時は銅) の流出を止めるべく、その代替品の開発、あるいは輸入しなくてもいい国産品の開発がすなわち国益につながるとの認識から、田村藍水は朝鮮人参の国産・市場化を果たし、源内は砂糖や鉱物の研究に熱心であった。そして、全国へ呼びかけこれまでにない珍品を集めて湯島で薬品会(やくひんえ、博覧会)を開催して、これを本に纏める。 ■この本が宝暦13年(1763)刊「物類品櫛隲」(ぶつるいひんしつ)で、日本で初めて本草を14部に分類した画期的な源内の書である。ここまで能書きが長かったが、この「鱗部」の中で「龍骨」について源内がこう書いている。 「讃岐小豆嶋産、上品海中にあり、漁人網中に得たりと云。其骨甚大にして形体略具(ほぼそなえ)る。之舐むるに舌着け之用いる。其効験本草の主治と合す。是れ真物疑ふべきなし。近世漢渡の龍骨あり。是一種の石にして真物にあらず。木化石に近し」 と、日本の物こそ本物でよく効くと言っている。源内は国益から書いているのだが、物それ自体を愛でる人がいた。石マニアの木内石亭(きうちせきてい)である。木内は明和5年は45歳。日本の考古学の祖とも言える人物だ。源内とも交流があり薬品会にも出品している。上の左図(西遊寺蔵)は木内が著わした「龍骨記」に掲載されているもの。この書の中で木内は、諸国の山海で少なからず龍骨は発掘されているとし、頭の大なるものは口中に人1人を隠すほど、歯の大なるものは枕二つ合わせたばかりで上下48枚、あるいは36枚、と述べている。木内の処女作は安永元年(1772)の「雲根志」。全国の奇石の集成記で、好評だったという。南畝の「半日閑話」にも紹介されている。 ところで、この龍骨は現代ではナウマン象などの化石だというが、ナウマン象に角があったっけ?当時の先端を走っていた木内は、文字通り龍の骨だと信じていたようである。 ■上の中図(「咄の絵有多」挿絵) の黒丸内の図柄は、吉原の遊女屋の入り口柱に貼られた魔除けの札「角大師」(つのだいし) 。2本の角が生えた鬼の像の札。吉原に限らないが、これを門柱に貼る習いがあった。 ■上の右図(「四方の巴流」挿絵)は吉原のみで行われた「狐舞い」。除夜の晩に遊女屋へ、狐の面をかぶり御幣をかつぎ鈴をもった男が、太鼓のはやしを連れて舞い込むのである。遊女たちは逃げ回る。狐に抱きつかれると、その年に孕むと言われるからだ。 | |||
03/03.11着
moeさん |