■七五三の祝 男女とも三歳は髪置(かみおき)、同じく五歳は袴着(はかまぎ)、女子の七歳は帯解(おびとき、子供着の付けひもから正式な帯に替える)の祝いがある。当月の十五日にこれらの儀を行い産土神(うぶすながみ、生まれた土地の神)へ詣でるため、諸社には夥しい人々が集まる。なかでも永田馬場、山王大権現、神田明神、芝神明宮、深川富ヶ岡八幡宮などは産子(うぶこ、氏子のこと)が多い社(やしろ)なので格別な賑わいとなる。 この祝いは、武家においては子供用の両刀を始め乗馬鑓から仕(つか)える奉公人の衣類まで新調し、縁辺知人へは進物を贈る。当日の客へ用意する膳部の費用は少なからざるものである。 将軍家から諸大名衆、高家(儀式や典礼を司った家格の高い旗本のこと)の方々に至っては、旧式の御家法の決まりがあるため(この部分、筆者は明治の世から江戸を眺めている)、この辺りのことは不分明である。旗本衆の幼君は麻裃に振袖を着て衣紋を整える。その馬上に乗った姿は愛すべきものである。馬前に従う二人の馬丁は浅黄色(あさぎいろ、薄い藍色)の地に白く主家の印を染め抜いた法被(はっぴ)に、同色の股引、白足袋を履き、呂色塗り(厚手の下地に黒漆を塗り、塗り面を炭で磨ぐ手法)で内側が朱蒔絵の馬柄杓(うまひしゃく)を帯の後ろに挿している。馬脇に従う二人の侍は今日が晴れの日なので、勇ましく袴の股(もも)立ちを高く取っている。 町家においては男子女子ともに、粋と優美を尽くした衣類を着る。帯、腰帯の結びに至るまで贅を尽くし、実母ないしは伯母・叔母に介添えはないが付き従い、乳母ないしは守(も)りも付き従い、小僧のだれかれ、若衆のだれかれ、出入の職人、抱え鳶には革羽織を着せ、みな打ち揃って産土神へ参詣する。その様子は大いに江戸が自慢する出立(いでたち)であり、御代(みよ)の豊かさを知らせるものといえよう。 |