■定斎(じょさい) 売薬行商するのは、日本橋新右衛門町と馬喰町の二軒しかない。五、六人が一組となって売り歩く。いかなる炎天でも笠を被らず、日陰を歩かないが、薬の効能を示せるという。薬箱は天秤で担い、「カチカチカチカタカタカタ」と音をさせながら歩く。「エ定斎やでご在」の呼び声は江戸市中の夏の景色である。
■稗蒔売(ひえまきうり) 土焼鉢(どやきばち)の大中小は、小は五寸くらい、中は六寸ばかり、大は一尺ほどである。その鉢の内に稗を蒔き、そして水を儲(たくわ)えて橋を渡し、草屋(草ぶきの家)と鶴、農夫の人形、制札(せいさつ、たてふだの意)、垣根、案山子などを飾り付け、稗のなかにあたかも田舎の田圃の景色を作り、「ひえまアきアひえまアき」と呼んで売り歩く。
■大伝馬町天王祭(おおてんまちょうてんのうさい) 毎年六月五日は神田社地(神田明神の境内)より天王二の宮を大伝馬町二丁目御旅所(おたびしょ)へ神幸(神体がお出掛けになること)があり、八日に帰輿(きよ、かついで帰ること)する。 この行列は、一番に幟(のぼり)十本、次に太鼓、榊、神鉾、四神鉾、太鼓、獅子頭二ツ、幣、小太鼓、神輿、神几、社務二人が騎馬。他は江戸歳時記に詳しく載っているので略す。この祭が近年評判なのは亀田鵬斎先生の揮毫(きごう、書画をかくこと)した大幟である。その他すべての祭礼飾りはみんな大きな作りなので、自然と大店の軒が連なる所柄(ところがら)となった。 この神事が終わると山王祭一番の山車(だし)で有名な諌鼓(かんこ)の山車を出す。山王祭が休みの年は、九月の神田明神祭礼に諌鼓鶏(かんこどり)を引き出す。一年両度ずつの大祭を催して慌てたりしないのは、大伝馬町が繁華な場所だからである。 この他一年両度の大祭を催すのは小舟町、南伝馬町、中橋桶町、槙町、鞘町などがある。しかるに大伝馬町、南伝馬町を除く他の町は、神田祭の年は一度の大祭であり、山王祭は山車を引き出すことはない。
※諌鼓(かんこ)=中国の君主が、その施政について諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、朝廷の門外に太鼓を設けた。諌(いさ)める鼓(つつみ)なので諌鼓と呼んだ。また諌鼓に鶏が付いたのは、君主が善政を行ったので太鼓が鳴ることはなく、長年の間に苔むしてしまい、鶏の絶好の遊び場となった。つまり太鼓に鶏が止まっているのは、世の中が泰平であることを示す象徴という意味になる。 |