■隅田堤の花見 花見の場所数あるなかで墨堤の花見ほど賑わうところはない。飛鳥山は遊ぶのによろしいところだが、帰途が日暮れになると婦女子の恐れる野道や人通りの少ない屋敷町寺院地があるから避けたいところである。道灌山は近いが花の少ないのが残念である。上野は霊地清浄にして御山内(ごさんだい)の規則があるので、恣(ほしいまま)に鳴り物を鳴らし陽気に振舞うことができない。向島は隅田川の清流船の便がよく堤上堤したに掛け茶屋が多くある。向島から隅田川を渡し舟で行けば、金龍山の寺内が賑わっており、少し進めば吉原の遊里から山谷の粋地(すいち)、堤上は左右から空を隠すばかりの桜花、東面に田圃西面に繁花(はんか)、隅田川に浮かぶ都鳥がいざ言問(ことと)わん在五中将(ざいごちゅうじょう、在原業平のこと、在原氏の五男で右近衛権中将からこう呼ばれた)の昔が偲(しの)ばれる。梅若の由来から源頼朝朝臣の故事にわたり、近きは文士墨客が風流で雅俗とも備わる名勝として花に戯れるところとなっている。
※在原業平の歌に、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」(古今和歌集収録)がある。業平が渡守に、「これは何鳥ぞ」と問うたところ、「これなむ都鳥 」と答えたという。歌の意味は、都といふ名が付いているなら、都鳥よお前は都のことを知っているであろう、さあ、お前に尋ねてみたい、都に残してきたわたしの愛する人は生きているのか、いないのか、と。
※梅若=能の「隅田川」に登場する。「隅田川」は、吉田梅若が人買いにかどわかされて隅田川の畔で死んだ故事をもとにしている。梅若は、「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」の辞世の句を残している。
※源頼朝の故事=頼朝は旗揚げ後、小田原石橋山の戦で破れ、房州に逃れる。その後下総で再起した頼朝は、房総武士団を糾合、数万の大軍をもって隅田川の石浜付近を渡河し、鎌倉へ向かったという。 |