■江戸年中行事&風俗                                                   江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

御殿女中芝居見物
 三月は気候ほどよく春の日脚が伸びやかで、青柳の姿がやさしく見える。宿下がりで一番の楽しみは芝居見物だ。奉公する身の気苦労を慰める保養の遊び、芝居見物は生涯に再びないような嬉しさがある。
 この宿下がりの間、普段の生活では御殿における髪形を解いて丸髷に結い直す。衣類や帯も模様縫いを捨て縞(しま)の小袖に帯も締め直す、これを「下方風(したかたふう)」という。
 思いのままに過ごすのも僅かな日数である。親類廻りや芝居見物が済めば再び御殿勤め、嬉しくもあり悲しくもある。奉公中に縁談が決まるまでは人中(ひとなか、人間関係)の気苦労などを凌(しの)ぐのが当時の辛抱である。
 この頃の芝居は浅草猿若町にあり、同町一丁目に中村座、同二丁目に市村座、同三丁目に森田座、この三座とも土地を幕府から賜り年中興行している。日々興行時間は早朝に始まり日暮れに終わるの決まりゆえ、遠い所から来る見物は夜がまだ明けない頃に家を出なければならない。乗物で行くのは世間への憚(はばか)りになるといって女子老人までも歩いて来る。
 御殿奉公の女中は縫い模様の御殿着に厚織の帯を締め、髪も御殿髷(まげ)で普段は大地を踏まない足で歩くので頭のみ先に出て足が追いつかない。だが、こうした労を経て芝居見物するのが最上の楽しみとなるのである。
 芝居見物の前夜に眠られぬ内に起き出して化粧支度に心を尽くし、途中の往来の疲れや桟敷で座したままの窮屈さ
、狂言役者に気を奪われての見疲れなど、みな翌日に一度に疲れが遣って来る、酒が醒めたように何一つ手に付くことなし、されば前日一日当日一日翌日一日、都合三日の間は芝居のお蔭で何事も出来ないものなのである。

※「世間への憚り」=世間に対しておそれ多い。